卒業記事特集 (ヒロの卒業) 第一章 (中嶋初代学長についてとAIUの歴史)
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以下第一章
さて、
第一章ですが、トピックは
国際教養大学(AIU)の歴史と初代学長中嶋 嶺雄先生について
語り始めたいと考えます。
国際教養大学 = Akita International University (AIU) の歴史なんてものを語り始めるわけですが、そもそも10数年しか出来てからたっていないこの大学にそんな大層なものがあるのか、という意見もあるとは思います。
ですが、どうも、僕たち11期という世代はある時代とある時代の狭間にいて、そこはAIUにおいて重要な転換点であったということが言えるのではと考えます。
その最たるものであり、11期である僕が触れるのに若干恐れを抱くものですが、
国際教養大学初代学長 中嶋嶺雄 先生の急死 という一件です。
この出来事は僕たちの一つ上の期
10期春入学の生徒たちが入学した直後に起きました。
当時のことを語る先輩は、
『プラザクリプトン(AIU近くのホテル:受験生がよく使う)で一度お見かけしたときに緊張して声をかけなかったことを一生後悔すると思う(10期)』
『大学はまだまだ発展途上で、もし中嶋先生がご存命であられたら、もっと違うAIUが見られたと思う。彼はとてもエネルギーをもった革命家であり、本当に惜しい人を亡くしてしまった。。(涙ぐみながら 8期)』
というようなことを言葉を絞り出しながら、僕に語ってくれました。
1期ー9期、(10期11期、もしくは12期の一部) は、
大学在学中、大学入学前に中嶋先生の講演を聞いて入学を考える、もしくは、大学での生活、学習を進めることができた世代だと感じます。
その世代と僕ら以降の世代には、重大な転換点があったのかもしれません。
こう記述するからには中嶋先生という学長がどのような学長であったかを記述しなければならないでしょう。
※長くなってしまったため転換点の記述は次の記事にまとめます。
ここからは中嶋先生の書いた著書 『学歴革命 -秋田発国際教養大学の挑戦-』からの引用を多用することになりますし、僕の書いた拙い文章で納得できない場合はぜひ、著書を手に取って読んでみてください。
この記事で、僕が引用するのは、彼の生い立ちから大学創設まで、
第5章以降のお話となりますが、とてもここには書ききれないため端的に書きますと、
戦時中を幼少期に過ごした中嶋先生は、
終戦直後の教科書を墨塗にしたことや、
GHQの民主化政策の推進から、社会主義、共産主義による日本赤化を危惧するGHQの方針転換による民主化の政治家の取り締まり という、
目まぐるしい価値観の変化、世相の混乱を感じ取り、
中等教育において、文部省著作『民主主義(上下)』を教える社会科の教諭に
深く影響をうけていて、
『これからはまちがった権威には抵抗できるような、政治的に自立した自省的な個人に生まれ変わらなければならない』
『失敗を恐れずに試行錯誤しながら社会をつくっていけばいい』
(上記:民主主義より)
また、『心の奥の奥の、そのまた奥の良心』を説く
嶋田正次教諭にも影響を受けているようです。
高校時代に、両親の稼業がうまくいかず、それまで考えていた医者の道をあきらめ、
社会批判の意識を強く持つようになり、関心が社会科学へ移っていくと
著書に書かれています。
社会科学に興味が移った高校2年の時に、
文化祭において当時の中嶋先生はソ連を礼賛した発表をなされたようですが、
国語と日本史担当の古田教諭に
『絶対の正義などあり得ないことを、理路整然と』
説かれたそうです。
古田教諭の宣言として以下のようなものがあったそうです。
『必要なものは - 知 -である。人間とは何者か。そのなしてきたことを知り抜くことである。そのなかに転換の鍵がある。(略) あらゆる雑音に迷わされず、知ること、知り抜くこと、この点が、その一点のみが歴史の転換の起爆剤となろう』
中嶋教諭はこう語っています。(以下学歴革命より抜粋)
何が真実で、何が正しいのか、社会の実相を見極めて、理不尽な事態に立ち向かうには、結局は『知と言葉』しかないのです。
『知と言葉』こそが民主主義の血と肉なのです。
大学時代(東京外語大)は学生運動に没頭する生活を送っていたようです。
(以下著書より)
『学友会(自治会)の委員長や全学連のリーダーの一人となり、1958年の教育現場での勤評闘争を最前線で指導しました。』
この当時の学生の情熱は
後々中嶋先生の大学改革の原動力の一因となっていると
僕は感じています。
大学卒業後に大きな転機があります。
著書『学歴革命』のトピックには、
中国への夢を打ち砕いた文化大革命
とあります。
この時から、中嶋先生の考え方に変化が訪れます。
文化大革命の内情を現地に行って理解し、日本社会に警告をします。
その当時は情報不足により世界的にも文化大革命の内情がわからない時でしたので、
大変有益でもあり、
本人の発信したいというモチベーションは大変なものがあったでしょう。
その後台湾元総統 李登輝氏と運命的な出会いをしつつ、中国研究家として世界的に認められるようになります。
これが大学改革着手以前の中嶋先生の大まかな略歴になります。
僕程度が書くとむしろ誤解が生まれてしまうことを恐れてしまうほど素晴らしい
といいますか、凄まじい人生を歩まれた方なので、より知りたい方は中嶋先生の著書をお読みくださればと思います。
このような凄まじい発言力と行動力をもつ方が10年で
この大学の文字通り基礎のすべてを命を賭して作り上げられた。
このことは、この大学にとって、幸運だったといえるでしょう。
さて、第二章は国際教養大学の屋台骨の教育システムを僕の4年間を例として書いていきたいと考えています。
最後に中嶋学長 著 学歴革命のURLを貼っておきます。