卒業記事特集 (ヒロの卒業) 第三章 (AIUにおける国際教養 (=international liberal arts)とは?)
さて、お待たせしました。
この第三章と第四章がおそらく
僕の書く卒業記事の中で一番重要になります。
実は、第三章およびその後の章は、一旦卒業前に書いていたのですが、
大幅に内容を変更することが必要と考え、書き直した結果、更新が遅れました。
申し訳ない。
国際教養大学(AIU)とは何かという問いに対して、はじめは自分なりの答えを悩みながら考え続けていましたが、なかなか考えが整理されなかったため、いつのまにか冗長な文章を書いていました。
一旦、書き終えた後でタイトルにある
「AIUにおける国際教養とは何か?」という
問いにあらためて向き合い、この問いはAIU生にとっては、
アイデンティティにも近い問いであり、
決して軽々に答えられない問いなのだと自覚しました。
しかし、だからこそこの問いに正面から答えずして、これでも責任ある広め隊の隊長であったと自負している僕としては卒業できないという考えに至り、全原稿を書き替えることにしました。
AIUにおける国際教養とはイコール(=) international liberal artsであるという認識を僕はもっています。あえて横文字を持ってきた意味としては、
日本における"教養"という言葉は適当ではないと考えたからです。
日本人における"教養"とは、テスト、資格等のある定められた
与えられた(出題範囲のある)知識を記憶し、運用することであるように思われます。
つまり、日本の教育システムでは、高校教育修了時の共通一次試験(今はセンター試験)、大学卒業時の国家公務員試験、司法試験、SPIなどです。
これらの試験は、ある出題範囲の知識体系があり、この知識を運用し最大限の”点数”を獲得する試験ということになります。
多くの人が、”教養”を”非常に幅広い範囲の知識”という認識でいる限り、国際教養大学(AIU)という大学はいつまでたっても、”国際教養”という名前に対して、比較的小規模大学で限られた教授陣で対応している、”名前が先行する大学”であるという偏見と認識を抱かれることになる危険性があります。
中嶋元学長以下、AIUの先生方が考える"国際教養"の考え方は
こうした考え方とは異なります。
実際、この大学は教育力が高い大学と評価を受けている理由はここに秘密があるのです。
(※実際に教育力のある大学ランキングでは最上位のうちの一つです。
もっとも、ランキングの選定方式が伝わらないためにその理由や
本質が理解できない受験生やその保護者他関係者が多いように思います。)
さて、ここまで引き延ばしてきましたが、国際教養大学におけるリベラルアーツについての自分の考え方は以下の通りです。
リベラルアーツ(=international liberal arts)とは、”奴隷”(= 言われたことしかできない人間)”ではなく、真の意味で"自由(liberal)な人間"になるための”知恵(arts)”という意味と思います。
ここで、"自由な人間"とはどのような人間でしょうか。
端的にいえば、「一個人として社会に対峙し、将来を含めた問題の発見力と専門家の英知を結集して問題を解決していく力がある人間」です。
逆に、専門性に頼りすぎると「それは私の専門ではない」という思考の落とし穴に陥ってしまい、自分の専門の問題以外の問題には関心も責任も感じず、その結果、”奴隷”と言われても仕方がない態度をとっている専門家になるとすれば、それは本来の教育の目的ではないはずですね。
例えば、普通の大学では、4年間の学習の集大成として卒論を扱わなかったり、扱ったとしても教授が提示するテーマの中から選択しそのテーマを研究するという例が多いという話も聞きます。さらに昨今の就活事情により、卒論を扱うところでも、昔ほど熱心に取り組む学生は減少してきていると指摘する人もいます。
国際教養大学では、卒業論文の執筆の際、自分が在学3年間でどのようなことに興味、関心を持ったかということが重要であり、自分が研究したいテーマを選択します。(もちろん、条件としては、英語で概ね5000-7000語におよぶ論文を4か月で書き切ることができるテーマであることが必要になります。)このため、研究テーマは非常に多岐に渡り、小規模校であるAIUの教授陣の専門の幅に収まらない例も出てくるのは当然のことかもしれません。
一方、他大学における卒論でよく聞くのは、大学教授の専門の範囲で、かつ4年生になると、適当なテーマを教授が提示しその中から選択したテーマを研究することになるという話です。この場合、学生が自らの問題としてテーマを設定しようとするプロセス、つまり卒論においてAIUが最も重要と考えている、”一個人として、はじめて社会と対峙し、不器用ながらも自らの知恵で問題を発見していく機会”が奪われている危険性があるのではないでしょうか。
『学歴革命』では、このような指摘をしています。
「就職率100%の大学での知的経験」
『知的経験は時に、難しい問題を私たちに与えます。
しかし、その問題から逃げることなく、実践的に取り組み、解決してゆく達成感は人生の最大の喜びにつながると思います。
AIUは、そのような知的経験を学生にさせるために、厳しくとも中身のあるカリキュラムを徹底的に作りました。』
当初、僕は卒論執筆中の学生(僕だけでなく、周りの学生を見ていても)の研究内容がAIUの大学教授の専門の幅に収まらないことを嘆いていました。
それは、4か月という短い時間、'教授の専門'には近いとはいえ、系統が同じというだけで、異なることを研究するため監督やアドバイスという点が他大学より劣るのではという懸念があったからです。
大学卒業時に悔いのない出来る限り誇れる研究をしたいという思いで、大学教育の集大成である卒業論文に取り組んでいたため、
上記のような点が小規模大学である、AIUの弱点と考えていました。
卒業論文を書き終わったあとも、このような思いを抱いていたため、もう少しできたのではと、もどかしい思いと、他大学の凄そうな研究テーマを聞くたびに自分の大学での学習に不安を感じることもありました。
しかし、その'凄そうな'研究が自分の興味・関心に従ったものではなく、教授が与えた課題であり、その範囲の中で研究をしていることも多いということをを耳に挟んでから、AIUにおける卒論について嘆くことをやめ、
そもそも研究というものは、まず一人でやってみることが重要だったということ
を思い返しました。
元々、研究というものは、
社会の中に問題意識を持ち、具体的な問題を発見し、自分がその問題を解決するために、行う活動であったと。
しかし それはむしろ当然のことで、それは社会に問題を感じた、一人の研究者の卵、もしくは社会問題を解決したいと志す社会人の卵が、初めて本当に挑戦しようとしたときに感じるであろう、孤独と挑戦の日々の初めの一ページであったと思い返します。
つまり、結局はAIUの学習における集大成である卒論は
基本的に自分が4か月という時間を使い、自分が発見した問題を自分で責任をもってまとめる(問題解決をする) 研究のことを意味し、所属するゼミの教授はあくまで、
一人のアドバイザーであり、その教授の意見は先輩の研究者の言であり、研究する内容を一ミリたりとも狭めることはないということ。
(やりようによっては、留学中に教えを受けた教授にコンタクトを取り、研究のアドバイスを求めることだって、できるのです。)
その中で執筆する論文は、もともと教授が設定したテーマで指導された他大学の論文に比べれば論文自体のテーマに対して、常にその'専門'の、教授がいるとは限らないと
思いますが、
確実に、この大学のリベラルアーツ(国際教養)の学習の集大成であると言うことができ、AIUは、リベラルアーツの精神を持つ学生を社会に送り出すことに成功している
と考えます。
さて、このような教育は新鮮さをもって、特に、学生の保護者様には
受け入れていただけるのではないかと思います。
これは"新鮮さ"という意味のほかに、これからの人材はこうでなくては ならないと考える中嶋学長の思いも含まれていると僕は考えます。
それはグローバルリーダーになれ!(Be a Global Leader!)というAIUの理念にあらわされます。次章ではそのことについて書きたいと思います。